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第8回鹿島神宮奉納 日本古武道交流演武大会

こんにちは、加治屋です。

平成29年10月8日(日)に、第8回鹿島神宮奉納 日本古武道交流演武大会に参加して来ました。

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鹿島神宮は、茨城県鹿嶋市にあります。北九州からはかなり遠く、東京に前泊して出掛けました。

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正面の大鳥居です。

東日本大震災で御影石製の大鳥居が倒壊したために、境内の杉の大木4本を使って、木製で再建されました。

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ここは、境内にある武徳殿です。前日に予行演習をしました。

武徳殿の床は、平成23年に張り替えをしているそうです。半分ほどは元の木で、半分を張り替えたのですが、神宮内の台風で倒れた樹齢400年の木を使ったそうです。杉板材の床です。床全体が波打つようなクッションがあります。

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鹿島立ちとは、旅に出ることを言います。

常陸(ひたち)国(茨城県)の鹿島神宮の祭神、武甕槌命(タケミカヅチノミコト)の神使は鹿(シカ)です。武甕槌命は、奈良の春日大社の祭神として勧請されて、神護景雲(じんごけいうん)元年(767年)6月21日、鹿島から白鹿に乗って(鹿を引き連れて)出立し、一年ほどかけて、神護景雲2年(768)に奈良の御蓋山(みかさやま/春日大社)に至った(鎮座された) とされ、春日大社の社司の租、中臣時風(なかとみのときふう)と中臣秀行(ひでつら)がそれに随ったとのことです(春日大社の縁起説話)。この故事に由来して、旅に出ることを「鹿島立ち」といいます。

他にも、武士が防人として任地に赴くとき鹿島神に道中の無事を祈願した際の事だとする説もあります。

夜には、他流派との交流会(宴会)がありました。

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演武大会の朝、大鳥居前で記念撮影。

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演武は、境内の特設舞台で行われました。

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演武後の写真。後方が舞台です。

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演武後に境内の森を散策。

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鹿島神宮の宝物館にある直刀。

刀身は、長さ223.4cm、反り0.7cm、元身幅(もとみはば)5.1cm、先幅3.1cm、茎(なかご)長36.8cm、切刃造(きりはづく)り角棟(かくむね)です。

『常陸国風土記』には、慶雲元年(704)に鹿島の砂鉄で剣を造ったと記されているとのことです。

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宿泊したホテル(写真のネオンの建物)の側に、塚原卜伝の銅像がありました。

卜伝は、延徳元年(一四八九年)吉川(卜部)加賀入道覚賢の次男に生まれ、幼名は朝孝。その後、塚原土佐守安幹の養子となり、新右衛門高幹と改名、実父から「鹿島中古流」を、養父からは「香取神道流」を学んだ。

大永二年(1522)、彼が三十四歳のとき、鹿島神宮で参籠し夢に神託を得て「一〔ひとつ〕の太刀」の理に開眼したという。

『関八州古戦録』では、次のように説明している。
「およそ一箇の太刀の内、三段の差別あり。第一、一つの位とて天の時なり。第二は一つの太刀とて地の利なり。是にて天地両儀を合比し、第三、一つの太刀とて人和の巧夫に結要とす。 当道心理の決徳なり」。

二天一流では、『五輪書』水の巻に、一つの打ちという記述があります。

一つの打と云事
此一つの打と云心をもつて、
たしかに勝所を得事也。
兵法よく学ざれバ、心得がたし。
此儀、よく鍛錬すれバ、兵法心のまゝになつて、
おもうまゝに勝道也。能々稽古すべし。

ちなみに、武蔵先生が打ち掛かり、卜伝が鍋蓋で防いだとの逸話がありますが、卜伝の没後(一五七一年)、武蔵先生が生まれているので、史実ではありません。

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